望月先生を偲ぶ
Obituary (英文)はこちら
1960-70年代にカラマズーに滞在された方はご存じかと思われますが、望月先生 (Rev. Mochizuki)が2021年8月7日に95歳でご逝去されたとの連絡をいただきました。 当時のWMUは曽我先生も着任前で、WMUで唯一の日系教授でした。訃報を受けまして会員のみなさまが望月先生との思い出を綴ってくださいましたので、筆者の承諾のもと一部紹介させていただきます。
合掌
北川幸彦様より
Mochizuki さんとの最初の出会いは、 1962 年シカゴ空港であった。
私は WMU の夏期講習に参加する為の慶應大学からのグループの一人として、カラマズーでは Mochizuki 家に何度もお邪魔した。 June (奥様)、 Judy (長女 12 歳)を先頭に 5 人のお子さんがもてなしてくれた。
悲しみが多くの人をおそった。同じく慶應から留学の、一人の女学生が 8 月 7 日に亡くなった。事故だった。クリーブランドでの葬儀には畑中俊介ほか数人の女子学生と共に列席した。カラマズーでも追悼式が行われた。両式とも Mochizuki さんが司られた。その時 Mochizuki さんは 36 才。 2022 年は丁度 60 年になる。
1964 年、 Mochizuki さん一家は横須賀の丘の上の家で一年間過ごされた。上谷達也、佐藤敬と訪問し再会を喜び合った。そしてその冬、日光の湯元で一家とスキーを楽しんだ。
その後も、ご家族で、時にはお孫さんおひとりのみが、日本を訪れた。最後は、鈴木茂雄の運転する大きな車で一家を軽井沢でピックアップし、巧みな運転で長野県を走り回った。
Mochizuki さんのご両親は長野県出身なのでルーツ探しの旅であった。「信濃の馬は優秀で、昔から都に献上されていた」との博物館の学芸員の話を喜んでおられた。
或る時、 Mochizuki さんに一冊の本を託された。壮年時代までが克明に記された自伝であった。戦時中に送られたマンザナ収容所では「 Yes 、 No, Boy 」を明言した、とあった。(米国に忠誠を誓うか? Yes. 日本人と戦うか? No. の意)
日米のはざまでの苦渋の選択であったのだろう。日米交流に貢献されたルーツもここにあるのではないか。
先年奥様が亡くなられた時、花束を贈った。今回はご主人に花束を贈る。
そして、 Judy さんからの弔文と Mochizuki さんの著書をゆっくりと読み返し、その生涯をたどろうと思う。
曽我亮子様より
『望月先生ご逝去のお知らせ、謹んで拝読いたしました。
私たち家族が50数年前カラマズーに移って来た頃、誰一人親しい方のない初めて の土地で心細い思いをしている時に、日本語で温かいお言葉をかけてくださった のが望月先生でした。それ以来 50年に亘る家族ぐるみのお付き合いの中で、いつ も力強く温かく私達をささえてくださいました。
コロラドのお嬢様方のお近くにお移りになってからも、望月先生のご親戚である 増沢さん(お父様同士がお従兄弟さん)を通して、いつもご様子をうかがっており ました。
95歳というご高齢で、天寿を全うなさったと申し上げてもよいと思いますけれど、 それでもご逝去の報に、ご一緒に過ごしたカラマズーでの日々を思い胸に沁み通 るような寂しさを感じております。有り難く懐かしい思い出の数々はわすれるこ とはありません。
先生の御霊安かれとお祈りしております。
山本道子様より
1962 年 8 月、姉の村上由希子がバスの事故で亡くなった際に、追悼の式を執り行ってくださったのが、望月先生でした。
姉の事故の翌年 ,1963 年の夏に、私はカラマズーを訪れる機会を得、シカゴ滞在中でいらした望月先生ご一家を訪ねました。シカゴのお家に二、三日泊めていただいたのですが、その頃の日本とアメリカの日常生活の豊かさには、画然とした差がありました。高校三年だった私は、とにかく買い物がしたくて(と言っても、外貨枠がほとんどなかったので、ささやかなものでした)、デパートには行ったことがないと仰る望月先生がお付き合いくださったのです。お小遣いのほとんどを叩いて、日本では買えない、セーターとスカートを買いました。オリーブグリーンの地色に大きなショッキングピンクのハートのついたセーターと同じオリーブグリーンのスカートと組み合わせることができるのです。当時の日本では考えられない、楽しさに溢れていました。今思うと、ひたすら恥ずかしいお願いをしたものです。
その後、望月先生が来日される度に、主人もご一緒して、我が家にお寄りいただきました。
今はどのご家庭でも簡単にカラオケを楽しめますが、我が家では早々に通信ではないカラオケの装置を手に入れ、先生はカラオケで日本の曲を次々と歌われました。お仕事柄、よく響くお声を出されているので、歌声もすばらしく、歌を歌うことで、すごく日本語の勉強になるとおっしゃっていました。
姉の五十回忌には WMU をお訪ねしました。曽我先生と奥様にお世話いただき、メモリアルサービスと、レセプションも開いていただきました。その折、望月ご夫妻はご高齢なので、お招きはしたけれど、いらっしゃいません。と伺っておりました。ところが先生ご夫妻がお越しくださり、その時がお目にかかった最後となりました。
お会いする時は、大体、奥様 June さんがご一緒で、穏やかな笑顔で座っておられました。大家族を支えられた June さんが先に逝かれました。 Judy さんのお手紙では、 June さんの最期の近くなった頃に、「死ぬのはこわくない。今までのように家族を迎える準備をして、先に行って、待っている」と言われたとか(覚え違いがあったら、お許しください)。
きっと先生とJune さんは再会されて、お幸せでいらっしゃるだろうと思います。
望月先生、本当にお世話になりました。